2009年06月30日

文革中の中華人民共和国の切手は

文革中の中華人民共和国の切手は、毛沢東語録を中心とする「革命的」題材で埋め尽くされ、スポーツ関係の記念切手に肝心のスポーツ場面が全くなくプロパガンダに終始していたこともあった。
文革期の中華人民共和国の新聞は、毛沢東語録の引用や毛沢東の写真に占領され、その新聞をたきつけに使ったり尻に敷いたことで吊るし上げられた者が多数いた。
旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。
陶磁器や金魚、月餅など古い歴史をもつ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられた。景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊され、陶磁器が割られたり金魚が殺されたりした(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用した)。文革の結果こうした伝統産業は壊滅的打撃を受け、その歴史は断絶。生産手段や技術もほとんど失われたが、文革後一部では日本の関連業界や生産者の支援で再興されている。
纏足や女中などの古くからのしきたりも廃止されたほか、麻雀や闘蟋(とうしつ)などの賭けを伴うゲームも禁止された。
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博物館の館員や美術店の店員は文化財を破壊活動から守るために、文化財に毛沢東の肖像画や語録を貼り付けて回ったという。そうすることで紅衛兵も破壊活動に出られなくなったという。
大学での研究教育には大きな遅滞が生じたが、一方で核兵器やミサイルの開発などの軍事的研究はこれらとは別個に行われていた。
「批判闘争大会」と呼ばれる吊し上げは町の広場やスタジアムで大勢の群衆を集めて行われた。批判される者に対して「反革命分子」のプラカードと三角帽をつけさせ、「ジェット式」と言う椅子に立たせて上半身を折り曲げる姿勢を数時間とらせた。その間に罵詈雑言を浴びせたり、墨を頭からかけたり、頭髪を半分剃りあげるなど肉体的精神的に痛めつけた。中には長時間の暴行に及ぶこともあった。また、辱めをあたえることもあり、1967年、劉少奇夫人の王光美はピンポン玉のネックレスを首からかけさせられブルジョワと非難された。

2009年06月12日

人生の意義(じんせいのいぎ、The meaning of life)は

人生の意義(じんせいのいぎ、The meaning of life)は、人間の発する究極の問いのひとつ。自然な日本語では「人生の意義」などとは表現せず、むしろ「生きがい」という表現のほうが定着している

この問いは、数ある哲学的な問いの中でも、おそらく最も古くから存在し、普遍的に存在する問いであり、多くの人間が想い抱く問いであるといえよう。「意義」という語が多くの解釈を持ち得ることもあって、この問いは漠然としている。「生きる事・人生の意義とは何か?」というこの問いに対する直接的な回答よりも、それを考えること自体に比重が置かれている場合もあり、人により様々な意味あいを持っている。

人が生きていく時間は長く、また、様々な思いが生まれ出てから果てるまで交錯する中で、自分自身の生を意識することが、また、他人の生を意識することが、人の常であるためである。この命題を問い掛けるもの、思い悩むものは、古今東西を問わず、様々な場所で見出される。

この問いは、経済的に豊かな国でほど切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求にかられ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすい、という面がある。[2]

この問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであって、普遍的な事実に関する問いというわけではないので、学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしない[3]。

人が感銘を受ける模範解答の多くは、宗教や哲学に存在している。あるいは文学や音楽などの芸術作品にも数多く存在する。ただしそのいずれも、やはり万人に有効な普遍的回答、というわけではなく、人の一生は各個人に固有のものであるため、ひとりひとりが自分で回答を見出してゆく努力が必要とされる。

同様の問いとしては「幸福とは?」「人生において貴重なこととは?」などがある。同様の理由で、これらの命題についても万人に当てはまる結論が見出されているわけではなく、各人が自力で見出してゆく必要がある。
ライフセービング
信用取引
バドミントン
インフルエンザ脳症
ダーツ
ビタミン
近代オリンピック
カロリー
ホームシアター
脳神経外科
ご当地群馬情報
ボクサー情報
日本の正月
ご当地鹿児島
花木・庭木の気持ち
ご当地山梨
フルーツ王国
ご当地静岡
番茶百科
日サロ体験


このような命題が人の心を捉える時期は3つある、とも言われる。ひとつは思春期であり、この期間を経た者の多くは、その段階なりの解答を持つ。中年期にもこのような問いが心を捉えることがある。これは「中年期の危機(en:Mid-life crisis)」などとも呼ばれる。深層心理学者のユングがこのような中年期の危機の問題に早くから関心を抱いた。 傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。 この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのである[4]。

そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある[5]。神谷美恵子は以下のことを指摘する。 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である

2009年06月08日

教育委員会(きょういくいいんかい)

各都道府県、各市町村(特別区を含む)、地方公共団体の組合に置かれる。

教育委員会は、地方教育行政法で設置され、都道府県レベルと市町村レベルと2つの枠組みで存在する。委員の定数は、標準では5人とされているが各地方公共団体によって3人や6人の場合もある。委員は議会の承認により首長によって任命され、委員の互選により教育委員長が1人置かれている。教育委員会は合議により職務を遂行する。

本来の教育委員会とはこの行政委員会であるが、実際の業務の処理のために、教育委員会事務局があり、これを教育委員会と呼ぶこともある(広義の教育委員会)。事務局には教育長が1人置かれていて教育長は教育委員も兼ねている。

現在の教育委員会には予算権は無く、子供の入学、教員採用から、学校(私立学校、高等専門学校、大学を除く)の管理運営の指導助言、命令監督などを行う他、社会教育、学術、文化などに関する事務を管理し、執行する。文化財についての解説が教育委員会名義になっていることが多いのは、このためである。
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連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)要請でアメリカ合衆国からの教育使節団が、1946年(昭和21年)3月5日、7日に来日、同年3月30日に第一次アメリカ教育使節団報告書が提出され設置勧告をされた。そこで文部省は1948年(昭和23年)に教育委員会を設置した。この制度は、教育行政の地方分権、民主化、自主性の確保の理念、とりわけ、教育の特質にかんがみた教育行政の安定性、中立性の確保という考え方の下に、教育委員会法によって創設された。地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会で、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持ち合わせていた。

しかし、「教育委員選挙の低投票率、首長のライバルの教育委員への立候補・当選、教職員組合を動員した選挙活動」(文部科学省、2004)などにより、教育委員会は発足直後から廃止が主張される。

1956年(昭和31年)には、教育委員会に党派的対立が持ち込まれる弊害を解消するため、公選制の廃止と任命制の導入が行われ、教育長の任命承認制度の導入、一般行政との調和を図るため、教育委員会による予算案・条例案の送付権の廃止を盛り込んだ地方教育行政法が成立した。教育行政に対する首長の影響力が増したといえる。

2009年04月24日

ライムギ

ライムギ(ライ麦、学名Secale cereale)はイネ科の栽培植物で、穎果を穀物として利用する。原産は小アジアあたりと考えられている。栽培化の起源は、もともとコムギ畑の雑草であったのが、よりコムギに似た姿に進化することでコムギに擬態して人間による除草を免れ、さらに環境の劣悪な畑ではコムギが絶えてライムギが残り、穀物として利用されるようになったと考えられている。別名はクロムギ(黒麦)。
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寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性がある。しかし、麦角[1]が発生しやすく、これが発生した畑からの収穫物には種子にまぎれて麦角が混入し、これを粉に挽いてパンなどに調理すると、麦角アルカロイドの毒性によって流産や末梢血管の収縮による四肢の組織の壊死などの中毒症状を引き起こすので、食用に適さない。

ローマ帝国では、貧困者が食べるものとしていたため、一時期栽培が激減したが、コムギより酸性土壌に強く、乾燥や寒冷な気候に耐えるため、スカンジナビア半島やドイツ、東ヨーロッパなどでは主要な穀物として栽培されていった。現在ではライ麦粉は小麦粉よりビタミンB群や食物繊維が多いことを認められて蔑まれることはなくなり、ヨーロッパ全土で栽培されている。

種子は粉にしてパンに焼いたり、ウイスキー(ライ・ウイスキーなど)やウォッカの原料としたり、また茎葉と共に家畜の飼料とする。ライ麦パンは色が黒っぽいことから黒パンなどと呼ばれ、小麦粉のパンよりも密度が高く、水分の抜けが少ないので日持ちする。パンの発酵にはイースト菌ではなくサワー種と呼ばれる何種類もの微生物が共存した伝統的なパン種を用いることが多い。

ライムギの野生種としては、S. fragile、S. montanum、S. vavilov、S. africanumがある。

2009年04月07日

エレクトロニカ

エレクトロニカ(英語 Electronica)とは、電子音楽や電子音楽に影響を受けている音楽全般を包括的に表す言葉。ただし狭義に用いられることがある

この言葉は、近代的な電子音楽を意味するものとして定義され、必ずしもクラブミュージックとしての性格を強調するものではなかった。名前の由来ははっきりしないが、言葉の使用自体は、英国のエレクトロニックロックのバンドであるリパブリカを表現するために、1990年代中ごろ、英国の音楽雑誌「メロディー・メイカー」によって造り出された。後に、当時全く新しい次世代のレイブ音楽として音楽界の主潮へと躍り出たのを契機として、その潮流を意味する言葉として、アメリカでは一般的となった。エレクトロニカという言葉がこのような新しいダンス音楽を包括する言葉として使用される以前は、エレクトロニック・リスニング・ミュージック、ブレインダンシング、IDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)などと呼ばれていた。1990年代中頃のMTVや主要なレコード会社は、エレクトロニカという言葉を、それほど包括的な言葉として用いているわけではなく、現在ではビッグ・ビートやケミカルブレイクなどと分類されているケミカル・ブラザーズ、他にもプロディジーといった面々によって世に送り出された主流の機械音楽を意味する言葉とて使用していた。現在では、ビョークやゴールドフラップなどの人気のアーティスト、オウテカ、エイフェックス・ツイン、ボーズ・オブ・カナダなどのグリッチ的な新たな手法を採用するアーティストから、ダブ指向の強いダウンテンポ、ダウンビート、そしてトリップホップまでを含む幅広い音楽活動や音楽様式を表す言葉として用いられている。人気を集めているアーティストの多くは、大衆向けの音楽においても、何らかのエレクトニカ的な要素を取り入れている。

2000年以降の動向 [編集]
現在エレクトロニカは大まかに2つの意味に別れている。広義のエレクトロニカはクラブミュージックなどを含む打ち込みを部分的にでも使った音楽全般であり、狭義には非クラブミュージック、非ダンスミュージックに特化したIDMとその周辺、進化系のみのことを差す。

(狭義の)エレクトロニカがもっとも注目されたのはクリック、グリッチ、カットアップといった手法が幅広く広がったときである。特にレーベルのミル・プラトーがClicks & Cutsと題した一連のコンピレーションシリーズでこの手法を集中的に取り上げた2000年前後である。それまではどちらかというとアレック・エンパイアのレーベルというイメージの強かったフォース・インクおよびそのサブレーベルであるミル・プラトーが、実験的なエレクトロニカを多数リリースする場となり、シーンを大いに盛り上げた。ただしクリックおよびグリッチはそれ以前にオヴァルが「発見」した手法である(さらに言うならカットアップもオヴァルが多用している)。このときに注目されたのがアルヴァ・ノト、Snd、フランク・ブレットシュナイダー(Komet)、トーマス・ブリンクマンと言ったアーティストである。

一方でエレクトロニカはハードウェアとソフトウェアの両面の発達から、より精緻で複雑化が進んだ。こういったアーティストは前述のクリック系アーティストと密接に連動し、必ずしも明確に分割することは出来ない。この方面のエレクトロニカが注目されたのは、レディオヘッドがエレクトロニクスを大胆に取り入れたアルバムを発表したこと、特にリーダーのトム・ヨークがオウテカを愛聴していると発言したためである。この方面の嚆矢としては前述のIDM時代からの重鎮オウテカやリチャード・ディヴァインが挙げられる。彼らは複雑なプログラミングやグリッチ、ドローンといった手法を用いる。特にリズム面が複雑化し、変拍子や拍子という概念を放棄したような曲すらある。

クリック、グリッチ、カットアップといった手法は、いわゆるダンスミュージックとしてのテクノやハウスといった電子音楽にも波及、特にテクノはその後シーン全体がクリック・テクノ/ハウス一色に染まった(シュランツはこれに反する流れとする見方もある)。有名DJもクリックハウスを多く廻し、田中フミヤの様にスタイルそのものをクリック主体に変えてしまったDJも多い。ダンスミュージックにこの手法が適応された例で注目されるのは、ミル・プラトーでクリックハウスというよりカットアップ・ハウスとでも呼ぶべき手法でDeck The Houseというスマッシュヒットを飛ばしたアクフェン、チリ出身、ベルリンでリッチー・ホウティンと共に活動をするリカルド・ヴィラロボス、ユーモラスなコラージュハウスを得意とするハーバートといったアーティストである。

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2009年03月23日

7500系を製造し、順次6?8両組成として投入されたが

本系列は、まず1961年6月に3編成18両が登場し、名古屋本線の特急に投入された。翌1962年(昭和37年)には2次車(7007?7013編成)が加わって計7編成となり、同線急行の他、犬山線にも進出している。

1963年(昭和38年)からは名古屋本線用に改良版の7500系を製造し、順次6?8両組成として投入されたが、支線でも広がるパノラマカーの人気に対応するため、1967年(昭和42年)に3次車として4両組成が登場した(7015?7023編成、冷房装置などを変更)。

1968年(昭和43年)には一部の車両が8両固定編成を組んでいたが、短期間で解消し、以後は従前車も4両組成に組成変更して増備されていった。そのため、1969年(昭和44年)製の5次車(7029・7031編成)は4両フル編成での落成であるが、その前後の4次車と6次車は先頭車のみの製造となる。

1971年(昭和46年)登場の7次車(7039?7043編成)も4両組成で、冷房装置が再度変更されている。

1973年(昭和48年)から4両組成の大部分を連結可能に改造し、本系列の4+4=8両編成はもとより他系列との連結運転も可能になり、同年暮れの第一次オイルショックに伴う輸送需要増にも対応することができた。

1974年(昭和49年)増備の8次車2本(7045・7047編成)は久々の6両組成での落成となり、先頭車の最終タイプを含んでいる。また、今回より車内の荷棚が7700系までの網棚からパイプ棚に変更され、これが現在まで一般車・通勤車の標準となっている。
ステンレス トマホーク バスク ダンプカー スポード プラーク スタミナ メード オーダー ケーブル 浮き桟 ミシガン マイカ トレビ レーン ベニトアイト リップ シェフ コムサット スプラ チオノ タイト サフー ナウシカ パラレル マッカー しらさぎ ミュージア カフェオ バート ベリー レガシー きくすい ジェジェ ダイオプ チャツ フレンチキ ソフト トラコーマ アンデス スエズ 五節の舞姫 ギョーザ ステミン イバル オード ラップ ローマ フェルミ ヘマタ

非連結仕様の4両組成も1975年(昭和50年)に最終増備車の両開き扉中間車(9次車、モ7050形7100番台)を組み込み、6両組成となっている。最終的に本系列として製造されたのは116両(モ7000形48両・モ7050形54両・モ7150形14両)である。

全車が健在の時期には、6両組成10本(60両)と4両組成14本(56両)という陣容であった。

1977年(昭和52年)のダイヤ改正で「特急」をすべて「座席指定」制に移行した際、当局からの行政指導で「特急」優先使用車の整備を行うこととなり、5次車以降の座席シート(赤モケット化)とカーテンを取り替える整備を行った。さらに1982年(昭和57年)には4両組成の一部が白帯を巻いて特急仕様車(通称『白帯車』)化され、併せて行先表示板も「逆さ富士」形から楯形(通称『小富士形』)に交換された。この『白帯車』の登場当時は、名古屋本線を中心とした特急運用に限定して使用され、行先表示板に付属する種別も『特』(特急)と『回』(回送)の2種類のみが表示できる設計となっていた[7]。この頃から展望室の速度計がニキシー管の入手難(製造中止・在庫切れ)で徐々に使用停止となり、初期『白帯車』には上から禁煙プレートが装着された[8]。さらに翌1983年(昭和58年)から1987年(昭和62年)にかけて1?3次車のうち42両について特別整備が行われた。延べ15本(4両組成に短縮した編成あり)に施工された特急仕様装備のうち、外装の白帯に関しては1999年(平成11年)以降にすべて解除されている。

1984年(昭和59年)から特別整備未施工車の廃車が発生したが、本格的に廃車が始まるのは1998年(平成10年)からである。2007年(平成19年)からは特別整備車の廃車も始まり、同年には最盛期のちょうど半数に減少した。この時点までに残った本系列のほとんどは製造年次の異なる車両や7700系の中間車が混在した編成となっていたほか、6両組成の行先表示が電動方向幕式に統一された。また、2008年(平成20年)6月29日のダイヤ改正ではさらなる廃車によりその6両組成が消滅、トップナンバーの7001Fも廃車となり、本系列は4両組成3本の12両(ただし7043Fの中間車は7700系のモ7750形)を残すのみとなる予定であったが、7001編成と7007編成は同改正後も運行されていた(7001Fは7041F、7007Fは5700系6両組成のそれぞれの代用)ため、同年9月までは20両(およびモ7750形2両)が残っていた。

座席は、戸袋部のロングシートと車掌台の補助席を除きすべて転換クロスシートである。座席本体は7次車から寸法や掴み手の形状が変更されている[9]。座席の枕カバーは当初ビニール製であったが、1982年以降特急仕様車(白帯車)ではセパレートの布製が、一般車でも本系列と7500系・7700系にのみ白色の合成繊維製が装着されている。なお、1986年以降に白帯車仕様であった車両は一般車格下げ後にビニール製に交換された。この改装時に交換された座席のままモケットだけ赤(7021F・7031Fのソファ風ロングシートのみ)や紫系に張り替えた車両もあった。

登場時のインテリアカラーは、化粧板がクリスタル柄の淡灰色、座席モケットが灰緑色、カーテンが濃黄色(ゴールド)であったが、その後座席の色は7700系登場後赤色に(8・9次車は当初から赤色[10])、さらに1200系登場後これと同じ紫系に変わり、カーテンについては幾度となく変更されて現状に至る。

特別整備を受けた一般仕様車の化粧板は同じクリスタル柄であるが、青灰色となった。また、1986年(昭和61年)以降の白帯車に限っては化粧板をクリーム色に張り替え、座席や荷棚、照明カバーも交換され、展望室には5700系と同型のデジタル速度計が復活した(7700系は座席交換のみ)。白帯時代の座席モケットは着席部が橙色、周囲が濃茶色のツートンであった。また、1982年改装分も含めて床面中央にカーペット調の敷き物が施されている。本系列で白帯車仕様の設備で残っているものは2007年初頭の時点では4両組成4本が在籍していたが、同年4月の3150系2次車就役に伴って3編成が廃車され、以降は7011Fを残すのみとなった。また、2008年10月19日からは同編成に白帯が施され、9年ぶりに白帯編成が復活し、運用終了までの間、白帯を復活した姿で運用される。

2009年03月07日

ノーザンプトン (重巡洋艦)

ノーザンプトン (USS Northampton, CL/CA-26) は、アメリカ海軍の重巡洋艦。ノーザンプトン級重巡洋艦の一番艦。艦名はマサチューセッツ州ノーザンプトンに因み、その名を持つ艦としては二隻目。

艦歴
ノーザンプトンはマサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール社、フォアリバー造船所で1928年4月12日に起工、1929年9月5日にグレース・クーリッジ(カルビン・クーリッジ大統領夫人)によって進水し、1930年5月17日にウォルター・N・ヴァーノウ艦長の指揮下就役した。

就役後大西洋艦隊に編入され、1930年の夏の間は地中海で慣熟航海をおこなった。1931年に重巡洋艦(CA-26)に類別変更され、1932年からは母港をサンペドロ、後に真珠湾と設定され、主として太平洋で活動した。

1941年12月7日の真珠湾攻撃の時、ノーザンプトンはウィリアム・ハルゼー提督が座乗する空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)と共に海上にあった。翌日港に戻り、9日に部隊はオアフ島北東の捜索に出撃した。それからジョンストン島の南へ向かい、その後再び北上してリシアンスキー島とミッドウェー島の西で敵の捜索に当たった。1942年2月1日にはウォジェ環礁を重巡洋艦ソルトレイクシティ(USS Salt Lake City, CA-25)とともに砲撃した。また、2月24日にはウェーク島を砲撃した。

3月4日、部隊は南鳥島を空襲してそれから真珠湾へ向かった。4月はじめノーザンプトンを含むエンタープライズの部隊は再び出撃し、空母ホーネット(USS Hornet, CV-8)の部隊と合流して4月18日にホーネットを発進したB-25爆撃機が東京を爆撃した。その後いったん真珠湾で補給を行い、部隊は南西太平洋へ向かいそこに到着したのはちょうど珊瑚海海戦が終わったあとであった。真珠湾に戻った部隊は次はミッドウェー海戦に参加した。ノーザンプトンは損害を受けず6月13日に真珠湾に帰還した。

7月中旬、ノーザンプトンは南西太平洋へ向かいガダルカナルの戦いに加わった。9月15日、サンクリストバル島南東で部隊は潜水艦の攻撃を受け空母ワスプ(USS Wasp, CV-7)、戦艦ノースカロライナ(USS North Carolina, BB-55)と駆逐艦オブライエン(USS O’Brien, DD-415)が被雷した。10月26日、南太平洋海戦に参加。
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ

11月30日、ルンガ沖夜戦で日本艦隊の放った魚雷が2本命中、沈没した。

2009年02月19日

ロミュラン人(-じん、Romulan)

ロミュラン人(-じん、Romulan)はSFテレビドラマ/映画『スタートレック』シリーズに登場する架空のヒューマノイド型異星人。惑星連邦、クリンゴン帝国に隣接し、ベータ宇宙域に広がる星間国家の一つ、ロミュラン帝国を支配している。宇宙大作戦初登場時の日本語訳ではロミュラス星人、ノベライズ『宇宙大作戦』シリーズでは当初はロムラン人、ロムラン帝国と表記されていたが、近年は「ロミュラン…」で統一されている。
シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス

生物学的には惑星連邦所属種族であるバルカン人と同一の種族である。これは地球の暦でいえば4世紀ごろ、バルカンにて哲学者スラクの提唱した論理的思考と平和共存を目指す思想改革が行われた際、スラクの教えに賛同せずバルカンを捨て現在のロミュラスに移住した人々を祖先に持つからである。 ただ、外見的には尖った耳たぶ、釣り上がった眉毛、つむじより放射状に広がった直毛の頭髪などが共通するものの、バルカン人に比べて肌の色がより緑がかっており、額に浅い畝のようなものがある。

精神
バルカン人と違い、暴力的かつ狡猾で効率を重視する。形勢が不利と看做すと自軍の艦船と言えど容赦なく破壊してしまう。また、「最初の一発」は必ず敵に撃たせる(それから徹底的に撃ち返して正当防衛を主張する)のを常套策とし、そのためにさまざまな策を弄する。 猜疑心が強く、偏執病傾向の強い者も多く見られる。

文化
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
挨拶には「栄光あれ」と言う。 ロミュランエールという強い酒があり、惑星連邦領域内でも非合法ながら飲まれている。 肩を強調した服を着用し、髪型はヴァルカン人と同じである。最高評議会議員の服装は和服に酷似しているが、文化的な位置づけは不明。

刑罰は残虐で恣意的だが、一応いかなる罪人にも処刑前に「公式な弁明を述べる権利」だけは認められている。

「狡猾で残虐で、独自の長い歴史と文化を持つ宇宙第三位の覇権国家」という作中のイメージは、明らかに冷戦期の中華人民共和国を基にしている。が、名称や細部には古代ローマ帝国の要素も多く盛り込まれている(惑星名の「ロミュラス」は「ロームルス」、「レミュス」は「レムス」に由来する 古代ローマ建国神話に登場する双子の兄弟の名)。またクリンゴン人ほどではないにしても尚武の国であり、陰湿な策を良しとしない硬派な武人も多い。(例:小説「宇宙大作戦?ロムランの罠」のス・タロン)

同祖であるヴァルカン人だけではなく、地球人やクリンゴン人とも混血可能(というより、スタートレック世界では異星間の結婚・混血はそう珍しい話ではない)。

なお、宇宙大作戦の時代において、すでに女性でも能力次第で司令官に昇進でき、ロミュラン艦の艦長や副長は女性が多く登場している。この点に関しては惑星連邦よりも(そして現実のアメリカよりも)進んでいた。

政治
最高評議会とタルシアー(諜報機関)によって成り立っている。カーデシアの諜報機関であるオブシディアンオーダーと同様に、タルシアーは暴走傾向にある。 帝国ではあるが、皇帝は存在せず、最高位は選挙によって選ばれる執政官である。評議会議員は各地域から選挙によって選出される。

歴史
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
22世紀に地球人類との初接触を行ったが、音声通信のみであった。その後ロミュラン戦争と呼ばれる戦争に突入。主に使用された核兵器により、お互いの宇宙船などは跡形も無く破壊されつくしたため、捕虜は一切存在せず、中立地帯などを設けた停戦協定締結も音声通信のみで行われた。このため初接触から、23世紀にロミュラン・バード・オブ・プレイによる惑星連邦領域への威力偵察が行われて、U.S.S.エンタープライズNCC-1701と交戦状態に入るまでの約100年間、お互いの姿を知らなかった。この戦い(TOSエピソード『宇宙基地SOS』)で、ロミュラン人とヴァルカン人が酷似していることが初めて分かり、エンタープライズ艦内はヴァルカン人のスポック副長への猜疑心で混乱した。しかし、ロミュラン人とヴァルカン人が同祖である以上、宇宙連邦はヴァルカン政府を通じてロミュラン人の詳細を知っているはずなのだが、この矛盾に関する説明はない。

23世紀には短期間ながらクリンゴン帝国と同盟関係にあり、遮蔽装置と引き換えにD7級巡洋艦を供与されるなど、長距離用宇宙船のノウハウを得た。

しかしその後クリンゴンが惑星連邦に接近するにつれ関係が冷却、2344年のキトマーの大虐殺によって、完全な敵対関係となる。

一時的にロミュラン・クリンゴン・惑星連邦の3勢力による惑星共同開拓(失敗)を行ったり、惑星連邦に大使を派遣するなどしていたが、クリンゴンと惑星連邦の和平条約(キトマー条約)締結妨害へのロミュラン大使 の関与が露呈したことをはじめ惑星連邦との衝突が目立つようになり、「別な用事(詳細不明)」があって鎖国政策をとり惑星連邦と再び接触を絶っていたが、突如53年間続いた鎖国を解きTNG序盤に再接触。クリンゴン帝国の内乱への介入、国内反体制勢力のヴァルカンとの民族再統合運動を逆用してヴァルカンの武力併合を企てるなど、数々の謀略を展開する。

ドミニオン戦争序盤において、タルシアーが政府に無断でカーデシアのオブシディアン・オーダーと共闘してドミニオンに攻撃を仕掛けたが、返り討ちにされて惨敗した。 以後、同戦争では惑星連邦、クリンゴンと共同戦線を張り、遮蔽装置を惑星連邦へ提供するなどした。

戦争終結後、ジャン=リュック・ピカードのクローンであるシンゾンが率いるレミュス人とその内通者によるクーデターにより評議会議員が議場で暗殺され、政権が奪取されたが、ピカードとの対決によりシンゾンが死亡すると政権はロミュラン人の手に戻った。

支配下の星
両星は二重惑星(または恒星からの距離がほぼ同じ)である。

ロミュラス
ロミュラン星間帝国の首都星。レミュスと同一の軌道を取る。
レミュス
英語ではRemusだが、翻訳によりレムス、リーマス、ロミー (Romii) の表記もある。自転周期と公転周期が等しいため、地表の環境は非情に厳しい。住民は地下生活を強いられている。ダイリチウムの鉱山が地下にあり、そこでレムス人は強制労働を強いられている。

主な戦艦
ウォーバード

代表的なロミュラン人
ネラル
セーラ
トモロク
トカス
ネヴェック

2009年02月03日

大和永享の乱(やまとえいきょうのらん)

大和永享の乱(やまとえいきょうのらん)は、室町時代の正長2年(1429年)に大和国で発生した戦乱。興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発し、大和一国に広がった。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

大和国国人は、興福寺の二大門跡である大乗院・一乗院の衆徒、あるいは春日社の神人(国民)として組織されていたが、南北朝時代には、南朝方であった国民の越智氏と北朝方であった一乗院衆徒の筒井氏を中心とし激しく争っていた。北朝方の勝利の下室町幕府が安定して以後も、幕府の支持を得た筒井氏に対し、越智氏も大和国南部を中心として勢力を維持し紛争は継続していた。応永21年(1414年)には興福寺の訴えにより幕府が仲裁に乗り出し、国人衆が幕府に直属し私闘をしない旨の誓約をしたが、争乱の火はくすぶり続けていた。

一進一退の攻防
正長2年(1429年)7月、豊田中坊と井戸某の間に争いが起こった。興福寺と幕府は停戦勧告をしたが一向に争いはやまず、豊田方についた越智氏、箸尾氏らは井戸方に加勢した筒井氏、十市氏を攻めた。翌永享2年(1430年)2月には井戸氏と同族の筒井氏を支持する幕府より、興福寺に対し豊田討伐の指示が出、更に翌永享3年(1431年)8月には筒井氏と箸尾氏が互いに相手方の居城を攻めるなど戦乱は拡大。将軍足利義教は箸尾氏に対し撤兵勧告をした。

翌永享4年(1432年)9月には越智・箸尾両氏に筒井氏が大敗し、井戸方の形勢不利になっていたが、筒井光宣が幕府に訴えたことで戦局に変化が生じる。幕府はそれまでの不介入方針を変更し越智氏討伐を決め、越智氏は大和南部に没落した。しかしその後、河内国守護の畠山満家が越智維通を支援、筒井氏も細川持之を頼ったが、永享6年(1434年)に入ると越智氏は勢いを盛り返し、筒井氏は再度大敗を喫した。翌永享7年(1435年)義教は光宣の訴えにより越智維通らの再度の討伐を決め、幕府軍を派遣した。越智氏は多武峰に籠もり敗れたものの以後も抗戦を続け、斯波持有率いる幕府軍は永享9年5月22日(1437年6月25日)に大合戦に及んだが決着がつかなかった。

綸旨発給
長引く南朝遺臣の討伐に加え同年7月11日(8月12日)、義教と不仲であった弟の大覚寺門跡義昭の出奔をみた幕府首脳は、大覚寺が南朝ゆかりであること、玉川宮、護聖院宮らの南朝皇族も共に逃亡したことなどから、後南朝・義昭に加え、当時幕府派の関東管領上杉憲実と対立していた鎌倉公方足利持氏の連携を疑い、翌永享10年8月28日(1438年9月17日)に多武峰を対象とした治罰綸旨を後花園天皇に極秘に発給してもらい[1]総攻撃を開始し[2]、翌永享11年(1439年)3月に至り越智維通が討たれ、10年に及ぶ戦乱は一旦終結した。

その後
しかしながら、越智氏の乱と持氏、義昭との連携については確たる証拠がなく疑問であるという論者もいる。今谷明は朝敵とは到底いえない持氏を対象とした治罰綸旨発給をしてもらうために南朝方であることから朝敵であることが確実な越智氏との連携を主張したものと推察している[3]。また、義昭の合流についても、義昭出奔を粛正を恐れた単なる逃亡と見る説[4]もある。

この乱により興福寺の権威は揺らぎ義教の支配が強まったが、永享12年(1440年)には早くも、結城合戦と関連した動きを見せた越智氏討伐のため幕府軍が出陣している。嘉吉の乱で義教が暗殺されると大和国内は再び混乱した。筒井氏内部の家督争いに畠山氏、越智氏らが介入し、更には当の畠山氏の家督争いと続き、応仁の乱を経て大和国は戦国時代へと突入していくこととなる。

2009年01月20日

一献目の酒が出された後

煮物
一献目の酒が出された後、一汁三菜の二菜目にあたる煮物碗が出される。煮物碗は飯碗や汁碗よりやや大きめの蓋付き碗を用いる。煮物は懐石のメインに相当する料理であり、しんじょなどを色取りよく盛る。煮物に続いて飯次(飯器)が出され、客は各自の飯碗にお替りの飯をつける。また、亭主から汁替えが勧められ、味噌汁のお替りが運ばれる。
ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま

焼物
焼物は一汁三菜の三菜目にあたる。煮物碗が客一人ひとりに配られるのに対し、焼物は大きめの鉢に盛った料理(焼魚など)を取り回す。取り箸は青竹か白竹の菜箸を用いる。客は鉢からめいめいの食べる分を菜箸で取り分け、向付か煮物碗の蓋に取る。なお、焼物は重箱で出す場合もあり、その場合は重箱の下の段に焼物、上の段に香の物を入れる。ここで2度目の飯次が出され、2度目の汁替えも勧められるが、汁替えは客の方で断るのが通例となっている。また、煮物の後か焼物の後に2献目の酒が勧められる。

預け鉢
現代の茶事では、一汁三菜に加え「預け鉢」あるいは「進め鉢」と称して、もう一品、炊き合わせなどの料理が出されることが普通である。これも焼物と同様に、大きめの鉢に盛り合わせた料理を菜箸で取り分ける。

吸物
食事の最後に出される小さめの吸物で、「箸洗い」「すすぎ汁」とも称する。以後は盃事となる。

八寸
八寸(約25cm)四方の杉の素木の角盆(これを八寸という)に、酒の肴となる珍味を2品ないし3品、品よく盛り合わせる。2品の場合は、1つが海の幸ならもう1品は山の幸というように、変化をつけるのがならわしである。亭主は正客の盃に酒を注ぎ、八寸に盛った肴を正客の吸物碗の蓋を器として取り分ける。酒と肴が末客まで行き渡ったところで、亭主は正客のところへ戻り、「お流れを」と言って自分も盃を所望する。その後は亭主と客が1つの盃で酒を注ぎ合う。盃が正客から亭主、亭主から次客、次客から亭主、と回ることから、これを「千鳥の盃」と称する。客が上戸の場合は、さらに強肴(しいざかな)と称される珍味が出される場合もある(強肴は「預け鉢」の前後に出される場合もある)。

湯と香の物
納盃した後、湯桶(湯斗)と香の物が出される。湯桶には湯とともに「湯の子」が入っている。湯の子は飯の「おこげ」が本来だが、あられ等で代用することもある。添えられた湯の子すくい(柄杓)で湯の子を取って飯碗と汁碗に入れた後、両碗に湯を注ぎ、飯碗に少量残しておいた飯で湯漬けをする。香の物は一片を残しておき、これで碗をゆすぐ。最後は湯を全部飲み切り、器を懐紙で清めて亭主に返す。これは禅寺の食事作法を取り入れたものである。

菓子
食事の後に菓子が出される。菓子は縁高(ふちだか)と称する重箱に入っており、黒文字と称する木製の楊枝が添えられている。縁高は客の人数分重ねられ、1段に1個の菓子が入っている。正客は縁高の一番下の段を残し、残りを次客に送る(次客も同様にする)。菓子は懐紙に取り、黒文字を使って食する。

食器
利休時代までは主に漆器が用いられていたが、織部焼などの国産陶磁器の発達によって多彩な器が用いられるようになった。

現在では懐石料理に用いる器は陶器、磁器、漆器、白木、ガラス器などがある。このうち飯碗・汁碗などは漆器を用いるのが通例である。茶席においては主客より詰まで順次取り回し、八寸が出てのち亭主が同席して杯事がなされ、菓子ののち中立ちとなり、客はいったん待合へ退き銅鑼の合図で再び席入りするのが本来であるが、いわゆる大寄せ茶会においては別室で点心が供されることが多く、この場合中立ちなどは省かれる。
重箱を器として、懐石の一通りの献立を入れたもの。松花堂弁当もこれに該当する。

懐石料理で知られる店には京都南禅寺近くの「瓢亭」、同じく京都の「柿伝」、「辻留」(以上2店は仕出し)、大阪高麗橋の「吉兆」、滋賀県東近江市の「招福楼」などがある

これらの店では茶室を備え、茶事を行うことが可能な店もある。